東行庵 tougyoan
- 区分
- 歴史
- 住所
- 〒750-1101 山口県下関市吉田1184
- 電話
ひとくちメモ
東行庵は33号線と260号線が交差する吉田地区にあります。 園内にある各種の案内板を記します。 高杉晋作(号東行)は天保10年(1839)8月2日、二百石の長州藩士(高杉小忠太)の長男として萩城下に生まれました。 藩校明倫館に学ぶ一方、18歳にして生涯の師吉田松陰の松下村塾に入門します。 文久2年(1862)幕府貿易視察団に加わり清国上海に渡り、半植民地と化した街の様子に衝撃を受けます。 文久3年(1863)下関を外国船から防備するため奇兵隊を結成し自ら初代総督となります。 元治元年(1864)8月四国連合艦隊の下関砲撃事件の戦後処理を行い、 同年12月長府功山寺で挙兵し、藩論を倒幕に統一し、 さらに下関開港、薩長同盟締結などを推進しました。 慶応2年(1866)には奇兵隊を指揮し長州再征軍を小倉口に撃退するなど討幕戦を指揮し明治維新のさきがけとなりました。 慶応3年(1867)4月13日(命日は14日)結核のため27歳8ヶ月の生涯を閉じ、 遺言により奇兵隊の本拠に近いここ吉田清水山に土葬されました。 晋作の墓の近くには、伊藤博文が彼を顕彰した大きな碑があり、『動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし』と刻まれています。
東行庵の地は清水山といい、幕末の頃奇兵隊軍監山縣有朋(当時は狂介)は麓に草庵を建て「無隣庵」と名付けていました。 晋作に仕えていた愛人おうの(谷梅処)が出家し、山縣は明治2年(1869年)に無隣庵をおうのに贈りました。 「東行」は晋作の号であり、おうのは明治42年(1909年)に亡くなるまで晋作をこの地で弔ったといわれています。 東行庵の入口にある石碑の歌碑の中に山県有朋の無隣庵歌碑があり、字は山県自身によるもので 「隣なき世をかくれ家のうれしきは月と虫とにあひやどりして」と刻まれています。 東行庵は曹洞宗の寺院で功山寺の末寺で、山陽花の寺二十四か寺第八番札所です。