豊神社 yutakajinja
ひとくちメモ
伊倉の地名は次のように伝えられている。
伊倉はもと生倉といい、和名類聚抄には
伊久倉とあり、法華寺文書には伊倉、応永9年(1402)の大内盛見文書にもいくらとあるといわれている。
これはもと意久といったもので、ある時代官倉が置かれ、その当時は意久倉と呼び、いつしかこれが地名となり、後に郷名を必ず二字にせよという
お布令により生倉と定められ(防長地名淵鑑)、後世これがさらに伊倉に転訛したと考えられている。
伊倉郷は一時その領域が非常に広く、安岡、勝山、川中の三村に及んだということであり、青山を面影山といい、
長門国意久羅村にありと書かれた古い資料が発見されている。
伊倉の日の見山に奉納されている豊神社に「意久神社」という相殿がある。
「意久神社」は防長地名淵鑑によると三代実録
に「貞観15年(873)12月15日丙午、長門国意久神従五位下を授ぐ」と記されていると伝えられている。
いつのまにか祭神の由緒が忘れられ「意久神社」は「伊久八幡宮」というようになり、
明治12年(1879)の願い出しによると意久神社を相殿として祀られるとされる。
明治43年(1909)の神社整理の時、村内の熊野八幡宮と稗田八幡宮と伊久良八幡宮の三社を合祀することになった。
社名をどうするかという合議の結果当時川中の村名は豊西下村といっていたので、その一字をとって「豊(ゆたか)神社」とつけることになった。
「川中の歴史」より
筆者の氏神様です。昨年末(2010年)、拝殿をリフォームした無人の神社です。